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シュリーラ・プラブパーダと献身者たちの間の会話や手紙からのこれらの抜粋を通じて、アメリカへの旅やそれにまつわる出来事をさらに深く理解することができます。これらの抜粋はコンピューター・データベース「尊師A.C.バクティヴェーダンタ・スヴァーミーの作品全集」から入手いたしました。

 

1970年11月7日、ムンバイのある部屋で尊師との会話からの抜粋

 

プラブパーダ:私はスポンサーなしでアメリカに行きました。いや、それは・・・ある紳士が一ヶ月、一ヶ月分出資してくれました。一ヶ月もなかったです。私はそこに3週間だけいて、そこで計画を立てました。彼は友人の息子で、その友人が彼に「スヴァーミージーを一ヶ月分出資しなさい」と手紙を書いていたのです。

 

ゲスト1:アメリカ人の紳士でしたか?

 

プラブパーダ:いや、インド人です。アグラからきた紳士です。そして、彼の息子がすぐに資金を送ってくれました。しかし政府は「後援者が個人であるため、渡米を許可できません」と言ってきました。私はそれでも、何て言うんでしょう、外国為替の経理部長、ラオ氏に会おうとしました。そしたらすぐに「ええ、スヴァーミージー、行っていいですよ」と快諾してくれました。彼は私のために戦ってくれました。

 

ゲスト2:いろいろ大変な時期でした。パスポートはすでに持ってました。

 

プラブパーダ:パスポート、ビザ・・・ 私はお金を一切持ち合わせてはおらず、とても厄介な立場にいました。私の哲学とは全く違います。私は4種類の罪深い行動をやめるよう説得するつもりでしたが、彼らにとってこれらは日常の一環だったのです。不正な性行為、飲酒、賭博・・・これらが彼らの日常なのです。ですから私は考えていました。「どうにかしてこれを止めなくては。でも誰が聞き入れてくれるでしょう?」でもクリシュナ・・・ 全てが・・・ 

 

ゲスト1:ひとつお聞きしてもいいですか?どうして最初にアメリカに・・・?

 

プラブパーダ: 私のグル・マハラージャが「英語圏の人々、特に西洋の国々にこの教えを広めなさい」と、私に命じたのです。まずはロンドンと考えたのですが、お金がありませんでした。そこで無料でシンディア・スチーム・ナビゲーションの交貿船に乗ってアメリカに行く機会に恵まれました。彼らは一等船室、所有者のある船室を手配してくれました。よく面倒を見てくれました。最初は、無料で蒸気船に乗ったことです。全くお金がなく、飛行機に乗るなんてもってのほかでした。で、あなたの質問はなんでしたか?

 

ゲスト1:どうしてアメリカを選んだのですか? 最初の・・・ 

 

プラブパーダ:ええ。彼らの船がニューヨークに向かうというので、私はアメリカに行く機会を得ました。私はその機会に便乗することにしました。「ロンドンへいくか、ニューヨークへいくか。」ニューヨークはロンドンよりいい場所ですね。

 

1976年6月8日、 ロサンゼルスのある部屋で尊師との会話からの抜粋

 

プラブパーダ:私は特に何も真剣には言いませんでしたが、もしかしたら彼、ゴーパルの父親は真面目に受け取ったのかもしれません。だからもしかするとゴーパルに「スヴァーミー・バクティヴェーダンタがアメリカに行きたがっている。君が出資をすれば、彼はいける」と書いたのかもしれません。親子の間でどのようなやりとりがあったのか、私は知りません。ただ彼に「私が(アメリカに)行けるよう、息子のゴーパルに出資をするように聞いてみたらどうですか?そこで説教したいのです。」そして数ヶ月後、ニューヨークにあるインド大使館から異議なし証明書が届きました。ゴーパルは到着してからの一ヶ月分を後援してあると言ってきました。それで突然、インド大使館から異議なし証明書が届いたんです。そして何度も何度も問い合わせがあることを知りました。それからパスポートと書類の手続きを試しました。そしてパスポートを受け取りました。それからスマティ・モーラルジーの元に行きました。前に彼女は私のバーガヴァタの本と引き換えに500ルピーをくれました。ですから「チケットを一枚ください」と聞いてみたのです。彼女はシンディア・ナビゲーションという運送会社を経営しています。そこで彼女はこう言ったんです。「スヴァーミージー、あなたはもう年よ。なぜこんな責任を背負うんですか?大丈夫ですか?」「ええ、大丈夫です」(笑い声)その時私は70歳でした。 秘書たちも「スヴァーミージーはそこで死ぬのではないか」と思っていました。それでも彼らは往復のチケットを無料でくれました。そういう手配がされていたんです。でもうひとつ、Pフォームを手に入れる手続きがありました。知っていますか?

 

ゲスト:Pフォーム。

 

プラブパーダ:Pフォームは州政府、そう州政府に認可されます。申し込みをしていて・・・認可を待っていたんです。それでインドステイト銀行の役員、バッタチャリ氏の元に行きました。彼はこう言いました。「スヴァーミージー、あなたは個人によってスポンサーを受けています。ですから受け入れることはできません。もしどこかの機関に招待されていれば、考慮することができますが、あなたの場合、個人主によって一ヶ月間だけ招待されており、その一ヶ月のあと、困難に陥ればたくさんの障害が待ち受けていることでしょう。」そこで私はこう言いました。「あたなは何をしたのですか?」「Pフォームを認可しないと判断しました。」「だめです。そんなことしないでください。あなたの上司を呼んでください。そのように決められるべきではありません。」そこで彼は私の要望を聞きいれ、書類を外国為替の最高責任者か何かに送りました。とにかくインドステイト銀行の中で偉い人です。それで私は彼に会いに行きました。そして彼の秘書に「書類は届きましたか?どうかラオ氏に。。。」彼の名前はラオ氏だったんですが「彼に会いたいのです」と言いました。秘書は快諾し、書類と彼にお会いしたいという趣旨が書かれた用紙をいれました。私は待ちました。するとラオ氏自身が出てきました。「スヴァーミージー、あなたの案件を通しました。心配なさらないでください」と言いました。(笑い声)こんな感じです。

 

ハリ・シャウリ:以前から彼を知っていたのですか?それとも・・・

 

プラブパーダ:いいえ、彼は私を知りませんでした。そこで誰かがムンバイで彼を見かけた時、「アメリカに行った時のスヴァーミージーを知っています」と思い出させました。誰かがそう教えてくれました。

 

ハリ・シャウリ:彼は思い出したんですね。

 

プラブパーダ:ええ。名前があって、彼は思い出しました。何と言っても彼は役員ですからね。たくさんの事を知っています。偉大な歴史です。(笑い声)船の上で二日間、心臓発作を起こした時がありました。とんでもない苦難でした。

 

トリヴィクラマ:それで夢を見たんですよね?

 

プラブパーダ:ええ。

 

ハリ・シャウリ:シュリーラ・プラブパーダ、どんな夢でしたか?

 

プラブパーダ:それは・・・(笑い声)ここに来なくてはならないという夢でした。

 

ハリ・シャウリ:なんらかの指示だったのですか?

 

プラブパーダ:夢でクリシュナが自身のたくさんの姿で船を・・・ なんて言うんですか?

 

ハリ・シャウリ:船を漕ぐ。

 

プラブパーダ:そう

 

トリヴィクラマ:ジャヤ

 

プラブパーダ:そしてボストンに到着してあの詩を書いたんです。

 

ハリ・シャウリ:一ヶ月間分しか後援を受けていないに、どうやってビザを延長し続けることができたのですか?

 

プラブパーダ:延長していました。ボストンで船に入国管理官がやってきて、質問を聞いてきました。「スヴァーミージー、どれくらい滞在するおつもりですか?」私は住むところもお金もない・・・でも帰りのチケットは持っています。だからどれくらいかはわからない。そう考えていました。(笑い声)彼はまた聞いてきました。「どのくらいの滞在をお考えですか?」この状況だったら、もって二ヶ月だと考えていました。住む場所も食料を確保する方法もないからです。またどこにいけばいいのか。だからせいぜい二ヶ月は努力しようと思いました。そこで私はこう答えました。「せいぜい二ヶ月滞在すると思います。」そしたらすぐに、二ヶ月を承諾してくれました。可能かどうかわかりませんでした・・・(笑い声)一ヶ月分はスポンサーがある。だから「あと一ヶ月。それだけ。」また「あの紳士が一ヶ月分スポンサーをしてくれてから、それは保証されている。それならもう一ヶ月も可能。それだけ。」その後は安定した住居もなく、いろんなところに滞在していました。そのためにビザを延長していました。毎回10ドル払っていました。また三ヶ月、また三ヶ月、そんな感じにね。そして一年分が切れ、彼らは延長を断りました。

 

ハリ・シャウリ:でもその時にはもうすでに何らかの・・・

 

プラブパーダ:ええ。

 

ハリ・シャウリ:・・・協会があったんですよね?

 

プラブパーダ:ええ、その時に私はセカンド・アベニューにいました。そしてラヤラーマが弁護士の助けを借りてくれました。彼は弁護を引き受けくれて、永住権をくれると言ってくれました。それで彼は延長しつづけ、毎回150ドルを受け取っていました。このようにして1965年に入国し、9月、いや7月、いや、5月まで、そして5月に心臓発作を起こしました。

 

ハリ・シャウリ:それはいつでしたか?1967年?

 

トリヴィクラマ:1966年

 

プラブパーダ:66。ええ、66年。そう、1年半後です。

 

ハリ・シャウリ:いいえ。それなら67年です。

 

プラブパーダ:延長を繰り返しているうちに、長い年月が経っていた。1967年の7月に、私は思いました。「もう健康もよくない。」心臓の発作の後、体調がとても悪くなりました。そしてこう思ったのです。「もう終わりが近い。それならヴリンダーヴァナに行き、そこで死のう」と。そのため1967年の7月に戻ったのです。そして私が船に乗ると、ブラフマーナンダたちは涙を流していました。心がとても弱かった・・・

 

プスタ・クリシュナ:船でインドに戻られたのですか?

 

プラブパーダ:いいえ、飛行機で。確か・・・

 

ハリ・シャウリ:サンフランシスコから。

 

プラブパーダ:ええ。当時少しお金が手に入りました。ジャヤーナンダが5000くれました。彼は5000、ブラフマーナンダもお金をくれました。そしてそのお金・・・に使いました。 それで6000ほど持っていました。そのお金でキールタナーナンダとインドに戻るためのチケットを買いました。そのようにして、インドに戻りました。

 

ハリ・シャウリ:今ちょうど・・・

 

プラブパーダ:そしてキールタナーナンダが戻れるようまた5000ルピー払いました。(ひそひそ話)それは何ですか?

 

ラーダヴァラバ:キルティラージャ・プラブがこのロッキング・チェアをあなたのために買ってきてくれました。

 

プラブパーダ:あぁ

 

ラーダヴァラバ:つけましょうか?

 

プラブパーダ:ロックンロール(献身者たちの笑い声)

 

ハリ・シャウリ:そしていつ戻ってこられたのですか?

 

プラブパーダ:1968年、いや67年の12月に戻ってきました。

 

ハリ・シャウリ:では、それほど長い間ではなかったのですね。

 

トリヴィクラマ:6ヶ月間

 

プラブパーダ:ええ、7月から12月。

 

トリヴィクラマ:そして健康はよくなりましたか?

 

プラブパーダ:そうでも。たくさんのトラブルがありました。戻ってきた際、脳内でずっと不快な音、ゴンゴンゴンと聞こえていました。とても迷惑でした。ロサンゼルスでこの・・・忘れましたが、ある場所に滞在していました。

 

トリヴィクラマ:ラ・シエネガ?

 

プラブパーダ:いいえ。ラ・シエネガはその後でした。ピコの近くにいました。ピコでしたか?そこに・・・ええと、ワシントン大通りがありました。その近く。場所の名前を忘れました。

 

1976年9月9日、ヴリンダーヴァナのある部屋で尊師との会話からの抜粋

 

プラブパーダ:・・・なぜなら船がボストンのコモンウェルス・ピアに止まった瞬間、入国管理が入ってきて、書類を持っていったからです。だからボストンからアメリカに入国しました。ニューヨークでは審査はありませんでした。船はボストンで止まりました。正式な入国はそこで行われました。それからニューヨークにやってきたときは日帰り旅行のようなものでした。

 

ハリケシャ:そこから直接ペンシルバニアに向かったのですか?バスで?

 

プラブパーダ:ええ、そうです。そうしたら、私のホストのゴーパル・アガルワル・・・彼はバトラーにいたので、代理人の何て言いますか?ホストを手配してくれました。

 

ハリケシャ:旅行案内人?

 

プラブパーダ:たぶん旅行案内人。彼が私の元に来て、「ゴーパル・アガルワルに送られてきました。私が手配します。一緒に来てください」と言いました。

 

ハリ・シャウリ:アガルワル博士があなたのスポンサーだったのですか?

 

プラブパーダ:ええ。彼のお父さんがアグラで私に会いにきてくれていました。アグラ。お父さんとお母さんが来てくれました。

 

ハリ・シャウリ:そして息子が後援者になるよう、提案したんですね。

 

プラブパーダ:全て偶然の出来事でした。アグラで彼のお父さんのところに招かれ、数日滞在していました。彼の息子がアメリカにいるなんて知りませんででした。それで彼は自身の家族の話をしていました。彼は長男が電子工学を学びにアメリカに行き、イギリス人の女性に魅了され結婚し、そこに移住して戻ってこなかったことを心苦しく思っていました。このような感じで・・・私はその機会を生かし、「息子さんに私の後援者になるように聞いてみてもらえますか?」と尋ねました。私はアメリカに行きたかったのです。彼がどれほど私を真剣に捉えたのかは知りません。ただ「1ヶ月でもいいので、息子さんに私の後援者になってくれるよう聞いてみてもらえますか?アメリカに行こうと思っているのです」と彼に言いました。わたしが出資について尋ねたのはたったこれだけでした。まさか本気にしてくれるとは思ってもいませんでした。そして2、3ヶ月後にいくつかの書類が届きました。その当時は手紙を郵便箱で受け取っていて、デリーを離れていたときは親切な本屋のアトマラームに郵便箱の鍵を預けていました。彼はそれを開け、書類を受け取ったのです。異議なし証明書、後援者からの便り、全部。私はデリーを離れていて、戻ってきた際にそれらを受け取りました。インド領事館からの書類、異議なし証明書など、全部揃っていました。そしてパスポートの申請をしました。こうして、私は行かなくてはならなくなったのです。ゴーパルは知りませんでしたが、彼のお父さんを知っていました。彼のお父さんは・・・ まぁそれで彼の代理人が私のバスを手配してくれました。そしてバスでペンシルバニアに向かいました。

 

ハリ・シャウリ:それは長いドライブですね。

 

プラブパーダ:ええ、バスで9時間でした。砕け米少しと、あるものを全てを持っていきました。1時ごろに船から降り、そして5時のバスまで待たなくてはなりませんでした。そして5時にバスが出発し、夜中の2時か3時にペンシルバニアに着き、ゴパールがバスのちょうど目の前で車の横に立っていました。なんて言うんですか?ワゴン車?

 

ハリケシャ:ステーション・ワゴン。

 

プラブパーダ:ステーション・ワゴン。彼は私の荷物を乗せ、そこから48キロ離れたバトラー郡に向かいました。夜に私の(不明)を取りました。彼のアパートに泊まる場所がなかったため、近くにあるYMCAで私の宿泊を手配してくれました。

 

ハリ・シャウリ:では、彼と一緒には泊まらなかったのですね。

 

プラブパーダ:彼の住まいには行ってました。そこで食事を取っていました。

 

ハリ・シャウリ:あぁ。ではYMCAで部屋を借りているだけだったんですね。

 

プラブパーダ:部屋がなかったため、私はYMCAに泊まっていました。

 

ハリ・シャウリ:彼がプログラム、その講話などを手配していたんですか?

 

プラブパーダ:彼の奥さん、サリー。彼の奥さんサリーが手配してくれました。とても賢い女性でした。彼らは同じくらいの年齢、30歳くらいでした。ゴーパルは30以上で、女性は(不明)。彼女が息子に肉の粉を食べさせているのを見ました。

 

ハリケシャ:ビーフブイヨン?

 

プラブパーダ:名前は知りません。でも彼女に尋ねました。彼女は「肉の粉」と答えました。それが主流なんですか?

 

ハリケシャ:とても幼いときは固形物が食べられないんです。

 

プラブパーダ:お湯と一緒に。

 

ハリ・シャウリ:えぇ。子供のために即席の食事があるんです。いろんな種類の。

 

プラブパーダ:だからゴーパルはこのようなインドのチャーパーティが食べられることにとても満足していました。

 

ハリ・シャウリ:彼のために料理をする必要があったんですね。加熱調理器を持っていたのですか?同じやつですか?

 

プラブパーダ:いいえ。そういうわけで21日間、彼と過ごしました。そしてニューヨークにやってきました。

 

ハリ・シャウリ:えぇ、バトラー・イーグルの写真。今年のヴィヤーサ・プージャーの本にも載っています。

 

プラブパーダ:ええ、はい。バトラー郡はいい(不明)でした。たくさん教会があり、人々はたくさん教会を・・・(不明)(中断)あるとき、そのワイヤーがどこかに置いてあって、竹が別の場所に置いてあって、南瓜の乾いた皮が一枚置いてありました。ある賢い男性がそれらを集めました。そしてその乾燥した皮がタンブラの・・・なんて言うんですか?

 

ハリ・シャウリ:わかりません。音響室のような。何て呼ぶんですか?

 

プラブパーダ:音響室でいいです。その乾燥した南瓜で彼は音響室を作ったんです。そして竹とワイヤーを使い、この「ティン、ティン、ティン、ティン」になったのです。(笑い声)私たちの協会もそんなものです。私は道をさまよい歩いていて、誰かがあちらに、また別の誰かがそちらに。一緒ではなく。国際協会弦楽団。えぇ。別々だと、私たちは全員使い物にならないですよね?ね?

 

次の手紙はシュリーラ・プラブパーダのためにニューヨークへのジャラドゥタの船券を無料で手配した、スマティ・モラルジーに宛てられたものです。

 

ニューヨーク

1965年10月27日

マダム・スマティ・モーラルジー・バイサヘーバ

 

ご挨拶を申し上げます。9日付の手紙を受け取り、内容を把握しました。アメリカに到着して以来、健康は良くなり、インドの菜食料理に必要な食材がアメリカにほとんど揃っていることに感謝しています。主クリシュナの恩恵によって、アメリカ人は全ての面において繁栄し、インド人のように貧困に苦しんではいません。ほとんどの人が物質的に満たされて、精神的生活へと向かっています。ニューヨーク市から700キロほど離れたペンシルバニアのバトラーにいた際、たくさんの教会を目にし、人々は定期的にそこを訪れていました。彼らが精神的生活へと向かっていることを表しています。また教会や教会が運営している学校や大学に招かれ、私の講話に満足してくれた彼らに報酬をいただきました。学生たちに話していた際、
彼らはとても熱心にシュリーマド・バーガヴァタムの原理を聞いていましたが、
牧師たちは学生らがとても根気強く私の話を聞くことを許していることを気にしていました。これはどの宗派でもあることなのですが、彼らは学生たちがヒンドゥー教に変えられてしまうのではないか不安視していたのです。主(シュリー・クリシュナ)への献身奉仕が、原住民や森に住む食人人種を含む、全員の共通宗教であることを彼らは知らないのです。

 

とにかくこれまでアメリカ人を研究してきましたが、彼らはインド式の精神的悟りを学ぶことにとても熱心で、アメリカにはいくつものいわゆるヨガ・アシュラマがあります。残念ながら彼らは政府にはあまり好かれてはいなく、このようなヨガ・アシュラマはインドでもあったように、罪なき人々を搾取していたと噂になっています。唯一の希望は彼らが精神生活に傾いていることであり、シュリーマド・バガヴァタムの信仰が広められば、彼らにとって大きな利益になるでしょう。

 

アメリカの大衆はインドの芸術と音楽も歓迎しています。たくさんの芸術家や音楽家がやってきて、一人ひとりが暖かく歓迎されています。最近ではマドラスからひとりのダンサー(バラサラスヴァティ)がやってきて、私は過去40年間そのようなダンスを見に行ったことはないのですが、観客の反応を見るためだけに友人と見に行きました。ダンサーは成功を収めていました。音楽はほとんどサンスクリット語のインドの古典的なメロディーで、アメリカ人はとても満足していました。将来の布教活動に明るい兆しが見えて、とても励まされました。


バーガヴァタの信仰も、主チャイタニヤがなさったように、音楽と踊りの芸術によって説かれてきました。私のバーガヴァタムの説教も同じように行おうと思っていたのですが、私には何の手段もありません。キリスト教の宣教者は膨大な財産に支えられ、世界中にキリスト教を広めています。同じように、主クリシュナの献身者も一丸となってバーガヴァタムの信仰を世界中に広める動きを始めるべきです。何らかの政治的な目的のためではなく、無神論の危険から人々を守るために、信仰を広めるのは必要なことなのです。キリスト教や他の信仰は次第に大きな勢力になってきている共産主義から人々を守ることはできませんが、バーガヴァタムの信仰はその哲学的、そして科学的なアプローチゆえに人々を守ることができます。ですからインドからサンキールタナ隊を呼ぼうと思っているのですが、どうすればいいか分かりません。計画立てられた組織などがないのでそれをするのはとても難しいのです。ラーマ・クリシュナ・ミッションもここにいますが、誤った教えを広めるのに必死で、インドの真の信仰を広めるのに失敗しています。名前だけのヨーギーたちもバガヴァッド・ギーターの真の信仰を設立することはできていません。彼らは物質的見返りだけを求めているからです。世界の人々を自己実現と精神的救済の道へと高める唯一の方法がバーガヴァタの信仰なのですが、彼らにはその信仰がありません。

 

主バラ・クリシュナが何を計画されているのかは分かりませんが、バーガヴァタの信仰を促進したいというあなたの気持ちと、私の小さな試みとで大きな目的を達成できると思います。主の恩恵によってあなたは世界で偉大な立場をお持ちであり、あなたは世界で最も裕福な女性と聞いています。しかしそれ以上に、あなたは主バラ・クリシュナに大いなる献身をお持ちの敬虔な女性で、この点に関して大きな役割を担えると思います。

 

あなたは主バラ・クリシュナの恩恵によって、家族の負担からも解放されており、パーム・バンの家では聖者、そしてタパスヴィニのように暮らしているのを見てきました。できればこのバーガヴァタムを広める活動ともっと真剣に向き合っていただきたい。私の願いは今すぐこの目的のために協会が作られ、その協会が文化活動のために政府に認められることです。政府の経費で数多くの文化的使命を持った団体がインドからやってきましたが、お金を無駄にしているだけです。しかしバーガヴァタムの信仰を教える文化活動があれば、それは人間社会にとって大いなる慈善活動となるでしょう。私はただこのアイデアをあなたに提示しているのであり、もしこの件に真剣にお考えになり、あなたの愛する主バラ・クリシュナにご相談すれば、きっとこの件についてさらにご啓示があるでしょう。機会があり、そして必要性がある今、全てのインド国民、特に主クリシュナの献身者にはこの件に真剣に取り組む義務があります。

 

お返事の手紙でこのつつましい提案に関するあなたのお考えをお聞きできるのを楽しみにしています。あなたが元気であることを願います。私は元気です。

 

敬具

A.C. バクティヴェーダンタ・スヴァーミー

 

追記 

あなたのお手紙の最後に「もしそこにい続けるのなら、病気から完全に回復するまでそこに残り、任務を果たしてからのみ帰ってくるべきだと思います」と書かれていたのを大変嬉しく思いました。バーガヴァタの信仰を正しく教えるというこの人生の任務を終えるまで、ここにい続けるつもりです。そしてこの理由のためだけに私は上に書かれている方法と手段を述べました。この目的のために協会を作り上げるのに協力してくだされば、あなたの持つ影響力によって、きっとインド人全員が一致団結し、インドの栄光を宣言するという使命を果たせるでしょう。ぜひ主のためにも、ご協力お願いします。

 

宗教文献を専門とするインドの大手出版社、ギータ・プレスの当時の会長、ハヌマン・プラサーダ・ポッダールに宛てられた手紙の抜粋です。

 

ロサンゼルス

1970年2月5日

ギータ・プレス宛

ゴーラカプール

 

親愛なるバージ・ハヌマン・プラサーダ・ポッダール、

 

私の尊敬の念を捧げます。あなたが送ってくださった1970年1月26日付の手紙を昨日受け取ったという報告がそちらにいったことだと思います。「カルヤナ」で私の活動について記事を書きたいということで、私が西洋世界に来るまでの経緯を簡単に述べようと思います。

 

1922年のいつか、私はボーズ医師の研究会社で部長として勤めていた際、私の精神指導者、尊師オーム・ヴィシュヌパーダ・パラマハンサ・パリヴラジャカチャーリヤ・108・シュリー・シュリーマド・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・プラブパーダに出会う幸運に恵まれました。尊師に初めてお会いした時、主チャイタニヤの教えを西洋世界に広めるよう、私に指示なさりました。

 

その頃私は若く、国家主義者であり、マハートマ・ガンジーやC.R.ダスの称賛者でした。ですからその時、「私たちが隷属国でいる間、誰が主チャイタニヤの教えに耳を傾けるのでしょう」と返しました。このように、精神指導者と意見の違いがあったのですが、最終的には説得されました。しかしその時はすでに結婚していたため、尊師の言葉を真剣に従うことができませんでした。

 

このようにして世帯者として過ごしましたが、尊師のいわれない慈悲によって、教えを広めるという指示が強く心に残っていました。1933年、ウタール・プラデーシュの知事だったマルコム・ヘイリー卿がガウディーヤ・マタの支部をアラハバードに設立した際、私は入門を授かりました。その後1936年に精神指導者は、私に英語で教えを広めるべきだというお言葉を残し、この世を去られました。

 

こうして私は真剣に考え、1944年に『バック・トゥ・ゴッドヘッド』誌を創刊し始めました。やがて1954年に家族生活を棄て、マトゥラ・ヴリンダーヴァナでひとりで暮らすようになりました。1959年に兄弟弟子のひとりである、HH.B.Pケーシャヴァ・マハラージャからサンニャーサの称号を受けました。

 

1960年に入り、シュリーマド・バーガヴァタムの翻訳を始め、1961年でしょうか、あなたのギータ・バギチャに招待されました。あなたはとても親切に、シュリーマド・バーガヴァタムの第1巻の出版の一部を、ダルミア慈善信託を通して、援助してくださりました。大変な困難に見舞われながらも、私はこの国に何冊かの本を持って行く準備をしていて、1965年までにはシュリーマド・バーガヴァタムの第2巻と第3巻を出版することができました。

 

大変苦労しながらも、外国為替の会長にPフォームを認可してもらい、どうにか、1965年9月17日、ボストンに到着することができました。ジャラドゥタの船内で、クリシュナがなぜ私をこの国に連れてこられたのかを考えました。私たちが従うヴェーダの生き方では硬く禁じられている様々なことに、西洋の人々は大変中毒になっていると知っていました。そんな感情から、私は主クリシュナ宛てに、この国に私を連れて来られた目的を問う詩を書きました。

 

その当時、友人の息子で、サリーという名のアメリカ人女性の結婚をし、アメリカに移住していたゴーパル・アガラワルからの出資を受けていました。私は彼らの賓客として、面倒を見てもらっていたことにとても恩義を感じています。ペンシルバニア、ピッツバーグ近くのバトラーで私は3週間ほど彼らと過ごし、その後ニューヨークにやってきました。それから少し時が経った頃、71丁目西100番地でアパートを借りたのですが、数ヶ月して全ての私の持ち物、、タイプライター、テープ・レコーダー、本が盗まれてしまいました。その後少しの間、生徒のひとりがバワリー・ストリートにある部屋に泊めてくれました。

 

その後収入源は全くないなか、26セカンド・アベニューでアパートと街路に面した店を月200ドルで借りました。定期的にクラスを開き、時々日曜日にはトンプキンズ・スクエア・パークでハレー・クリシュナ・マントラを午後3時から5時まで唱えていました。その間ずっと、若い少年少女が集まり、時折詩人のギンズバーグや、ニューヨーク誌のレポーターも私を見にやってきました。このように、ハレー・クリシュナ・マントラのチャンティングはロウアー・イースト・サイドでとっても人気になりました。

 

このようにして、若い世代が(この運動に)魅了され、次第に数多くの支部が設立されました。ニューヨークの次にはサンフランシスコで支部が立ち上げられ、そしてモントリオール、ボストン、ロサンゼルスで立ち上げられました。現在アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、日本、そしてオーストラリアに支部を構えています。

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